細かいプロフィール

  • 2018年4月5日
  • 2021年4月16日
  • 日記
  • 242回

MAKOTO OKAZAKI  岡崎真

 

1980年08月25日 福岡県北九州市門司区出身

乙女座 O型 お茶屋の息子で3人兄弟の末っ子

小1から小3までピアノを習う

小1から小6まで剣道を習う

幼稚園の頃、母親が習いに行っていた油絵教室について行っていたせいか絵を描くとだいたい入賞していた

父親が音楽好きでありJAZZやPOPsなどの沢山のレコードが家にあり幼少期はその中から姫神喜多郎というアーティストの曲を聞くのが好きだった。今考えるとその頃からニューエージ音楽とかインストが好きであった




学校の成績は体育と図工以外は普通以下の成績というスタンスをとり

小学生の頃は 政治家になって自然を守る という立派な夢を持っていた

中学ではバスケ部に入り中3でバンドを始めボーカルをやる

中学時代の成績は体育と美術と音楽と英語以外はオール1、テストはほぼ0点という成績を修め

高校に入りギターボーカルを始めるが同じバンドのギタリストのギターの上手さを見て自分にはギターの才能が無いと思い込みギターをすぐにやめる(ただこの時はコードのFは弾けていた)そして自分のライブの録画VHSを見てボーカルの才能も無いんだと思いボーカルもやめる

その頃、友達の家にあったターンテーブルに出会いDJを始める。この先10年間はDJを続ける

高校時代はバイクと音楽が好きで夜はバイクで遊び昼は学校に行かずに家で音楽を聴いていた為、1浪する。2回目の高校1年生も同じ過ちを繰り返し2浪はできないと言われ退学になる1日前に自主退学をする

DJとは別に17歳の頃、自分には何が向いているのかを考え、祖父が写真家であったことから、写真の才能ならあるのでは無いかという安易な考えからカメラも始める。

20歳の時に色々な国で写真を撮って周ろうと思いバックパッカーになる(初めての海外の旅は台湾→インドネシア)

結婚式のカメラマンもしたり風俗雑誌のカメラマンも経験した

でも結局は何が撮りたいのか分からずにバックパッカーは続けるが写真家の夢は挫折

カメラマンを目指すことを辞めDJで飯を食って行きたいと思いだし切磋琢磨した。好きなレーベルは NinjaTune 目指すアーティストは分かりやすく言えば FAT BOY SLIM や The Chemical Brothers というパーティーピーポーだった

26歳の時に真珠腫性中耳炎という病気にかかり手術をして右耳の聴力を失う

この出来事により考え方が変わる(当たり前の事に感謝するようになり、禅宗の坊さんになりたいと思った)そして電子音楽にも興味が沸かなくなる

この頃、たまたまついていたテレビ、アニメBECK から流れてきたブルースに惹かれ、家に置いてあった外国人の友達からもらったSUZUKI.NO1というアコースティックギターでギターを始めた

ニートだったのでずっとギターを弾いていた

ギターを始めた2週間後くらいに John ButlerTrace Bundy を見て感銘を受け自分の人生もこの人達と同じようにギターで人に感動を与えるべきなのだと思い込む

ギターを極めるならアメリカだと浅はかな洗脳された知識でアメリカ行きを決意

渡米の資金を貯める間も地元にいるよりも東京のギタリスト達を見た方がいいのだろうと思い上京

 

上京して飲食店でバイトをしながらギタリストを目指すという生活をした。バイトも8時間ギターも毎日8時間くらい練習した。イチローなら今日も休まずに素振りをするのだろうと、自分に言い聞かせ、わけもわからないなりにギターの練習をがむしゃらにした。(今考えるとこの時にもっとまともな練習ができていればもっと違っていたのだろうとよく思う…)8時間働いて8時間ギターを弾いて4時間位、吉祥寺で呑んだくれて4時間くらい寝て仕事に行くという生活を1年間くらい続けた。そんな生活を続けていたので貯めるためのお金は飲み代に消え渡米資金も貯まるはずもなかった。何しろ渡米の為の資金をいくら貯めるかという目標金額などの設定すらなかった

なのでとりあえずもう、アメリカに行く事にした

カードでロサンゼルス行きの航空券を買い所持金は4万円

(これを見かねた友達が10万円を餞別に渡してくれた。このお金は使わないと心に決め)

合計14万円を所持し渡米(この時、27歳ぐらい)

なんでも考え方が安易なのでアメリカに行けばブルースマンとの劇的な出会いがあり自分もRobert Johnsonのようになれると思っていた

それは、まるで日本に行けばサムライがいると思っているくらいアホな考え方であるということには渡米した後に気付く

日本よりも先をいってるいるアメリカはHIPHOPやEDMにあふれていた

ギターとアナログのレコードも50枚くらい持って行ってたので運よくL.AのクラブでDJも出来た

色々な人と出会い、なんとか色々な人に助けてもらいながら3ヶ月間ロサンゼルスで過ごせた。L.Aに行って分かったのはニューオリンズに行った方が良いということだった。が、なんせお金を持って行って無いのでロサンゼルスから身動きがとれずビザの期間が終わるいうことでギターの事は1mmも収穫が無いまま帰国(今考えるとブルースとかを学びたいのに初めからニューオリンズに行った方が良いという事になぜ気づかなったかと)

成田空港到着時、財布の中には1ドルしか入っていなかったが、そこでやっと友達からもらった餞別に手をつけ成田から吉祥寺までのバス代を払い吉祥寺まで帰った。なぜかわからないが帰国後2週間は所持金1ドルで過ごせた

その後に AFRO&funksoulbrothers というギター・キーボード・ベース・ドラムの4人編成のファンクやポストロックをやるインストバンドを組む

3,4年そのバンドで活動をするが解散というか活動をしなくなる

その後バンドを色々とやろうとするが続かず音楽はやめようと思う

ただ、やめるならやれるだけやってみようと思い。音楽以外の事では稼がないと決意しイタリア料理店でのバイトを辞める。でも当たり前なことに音楽の仕事の依頼などいきなりくるわけもなく何をしたら良いかわからなかったので、とりあえず、路上ライブを始める

コレが不思議とチップやCDが売れたり演奏の依頼がきたりと生活ができるようになる

音楽以外に仕事をしていた時よりも生活が安定してくる(32歳)

それから2年間はほぼ毎日、神奈川、東京の至る所で路上ライブをした

音楽だけで生活はできるようになったが、こんな事がやりたかったのでは無いと感じだし、もう音楽はやめようと思い福岡に帰郷

帰郷するも3ヶ月後には音楽をやらない生活に気が狂いそうになりまた上京

渋谷で車中泊生活をしながら、また路上ライブをやりだす

そして渋谷路上ライブの時にインターFMのプロデューサーに声をかけられラジオ出演をする

そのラジオがきっかけになり出演したイベントでKADOKAWAメディアファクトリーのプロデューサーに声をかけられCDをリリース

それから有難いことに企業のイベントなど演奏依頼が増えてくる

自分のやりたい方向へ進めば宇宙は必ず味方してくれるのだと確信するようになる

その頃からもっと音楽のことを理解しなくてはと思い出し音楽の勉強をやっと始めた

極端なのでクラシックの作曲家の本も読んだりし、モーツァルトの旅をしない音楽家は不幸だという言葉に刺激を受け

ジャック・アタリ というフランスの経済学者の 21世紀の歴史――未来の人類から見た世界 という本を読み

海外に出なければ!と思うようになりヨーロッパへバスキングの旅に出る

アジアも周りたいと思うようになり最近はアジアの色々な国を演奏をしながら回っている

 

最近は沸々と蘇ってきたカメラ熱と共にブラジル音楽に興味があり南米にも行って見たいと思っている

 

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